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​​天理教東正道分教会70年の歴史

 当教会は、初代会長佐野彦右衛門が母の腹膜炎を手引きとして明治44年11月20日に入信、十神集談所長(現十神分教会 安来市安来町)山枡永好所長の仕込みにより成人し、「西伯集談所」を米子市博労町に開設、その後、角盤町4丁目、寺町、勝田町、住之江町と米子市内を四度移転し、米子市富士見町に「東正道布教所」の開設を承認された。

 こうした中、信者たちは布教活動を熱心に行い、東正道布教所の教勢は伸び栄、教会設置の気運が高まり、昭和23年2月28日「東正道分教会」の名称の理が許された。同時に初代会長に佐野彦右衛門が就任、その後昭和29年米子市錦町へ移転、念願の神殿建築との運びとなった。7月4日鎮座祭、翌5日奉告祭となったが、竣工目前の6月13日、佐野彦右衛門は、上級十神分教会月次祭当日、64歳をもって出直した。数々の荒道を40余年通りきって今まさに念願の神殿建築が完成するという時の出直しだけに、人々は嘆き悲しんだ。

 後任は長男佐野繁雄が任命され、昭和29年10月27日二代会長に就任。二代会長佐野繁雄は、東正道分教会教会設立にあたっては信徒総代となり、父会長をよく補佐する一方、島根県安来市の日立金属に勤務し、経済面でも父を支えた。会長に就任してからは、移転建築費の返済、教祖七十年祭の御用、また布教と休む間もなく勇んで務めた。しかし、昭和42年10月11日、勤務中に熔鉄を腹部に受け、図らずも出直した。時に52歳。

 二代会長の後任は役員の加藤マシ子に決定し、また同時に教会も米子市車尾の加藤宅へ移転、昭和45年1月26日三代会長に就任した。平成8年長屋借家の一件だった東正道分教会は、国道9号線(現在は旧9号線)から借家までの道が細く、消防車が侵入できないという理由で市から取り壊しの要請が出ていた。ついには大家が取り壊しを決断し、東正道分教会は移転を余儀なくされた。移転先を探していた所、当時十神分教会の日吉津布教所長小村英子が、十神分教会部内、東正道分教会の神様の御移りする場所がないことを聞き、色々と思案を重ね、日吉津布教所一件を東正道分教会にお供えした。

 それにより、三代会長加藤マシ子は会長を退き、後任は十神分教会長福寄勲の長男福寄誠が任命され、平成10年1月26日四代会長に就任、同2月16日移転鎮座祭、17日には四代会長就任奉告祭が執り行われた。平成29年、上級十神分教会長の身上のさわりにより、十神分教会役員、信者で色々と思案を重ね、新たな道に進む心定めをし、十神分教会長、東正道分教会長の交替を願い出る運びとなった。それにより四代会長福寄誠は会長を退き、後任に長男福寄広之が任命され、平成30年1月26日五代会長に就任、同2月15日就任奉告祭が執り行われる。幾へもの節を乗り越え、代々に渡り教会名称の理が守り繋がれ、平成30年2月28日に創立七十周年を迎えた。

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​五代会長 福寄広之

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